戸田屋とは

伝統と革新、
その歴史の中で
水は澄み、風がそよぐ自然の恵みが豊かな、この南信州伊那谷。この地に根差した戸田屋の歴史は寛永五年までさかのぼります。古くより菓子、食品等の地場産業との関わりが深く、地域社会への砂糖、小麦粉などの菓子、食品原料の供給を通じ、当地域の豊かな食文化の発展に貢献してまいりました。
この地域の自然と風土に根ざした文化と伝統を大切にすること。四季の移ろいを真心込めた製品に表現し、味わう人々の心に豊かさと潤いと喜びを与えること。長い歴史の中で変わらず貫いてきたこの精神は「ふるさとである南信州伊那谷の、素晴らしい自然、伝統、文化を大切にし、食を通じ健康で豊かな暮らしを生み出していく」という、戸田屋の経営理念として現在も脈々と受け継がれています。
リニア中央新幹線、三遠南信道等、この地域を取り巻く環境の変化は期待に満ちています。
菓子、食品の原材料問屋から半生菓子、生菓子製造・販売へ、戸田屋は常に時代の先を見つめながらも、お客様の笑顔を自らの喜びと生き甲斐にするという基本を忘れることなく、お菓子に南信州伊那谷のエッセンスを加え、「極上の味わい」を全国に向けて発信し続けてまいります。

戸田屋をはぐくむ
菓子文化
小京都と呼ばれる南信州伊那谷の風土と
名水の存在が和菓子文化をはぐくみました。
この地には名水百選に選ばれた「猿庫の泉」が、飯田の北西、風越山山麓に湧き出しており、江戸時代、茶道家の不蔵庵龍渓宗匠によって探し当てられたと言われています。
その時以来、飯田には茶の湯の文化が根づき、朝眼が覚めると朝茶を飲み、午前と午後のお茶の時間、さらには三度の食事の際にお茶を飲む。 飯田の人々のお茶好きは、古くからの歴史に裏づけされたもので、そのお茶好きがお茶と切っても切り離せないお菓子の文化を育み、全国でも有数の和菓子の産業がこの南信州伊那谷で発展してきました。
全国シェア約40%を誇る
南信州伊那谷の半生菓子。
江戸時代より育まれた茶の湯の文化によって発展した南信州飯田のお菓子文化。和菓子は、水分含有量の違いにより、水分を多く含み比較的日持ちのしない生菓子と日持ちする半生菓子、干菓子に分けられます。それまで飯田下伊那郡内で消費されていた南信州伊那谷の地場産業である半生菓子は1955年(昭和30年)頃より郡外への売込みが始まり、注文が増加しました。その後戸田屋は1962年(昭和37年)頃より、市場を全国に展開、今まで地域密着型、生業的経営であった半生菓子業界も大規模な工業化へと発展し、現在は全国シェアの約40%を誇ります。
寛永五年(1628年)、伊勢の国より戸田屋善次郎が移り住んで以来、戸田屋はこの飯田に根をおろし、砂糖、小麦粉などの原料供給を通じ菓子文化を支えてきました。
南信州飯田の地場産業、半生菓子業界の発展が戸田屋の現在の基となっていると言っても過言ではありません。

素材へのこだわり
東に南アルプス、西に中央アルプスを望み、諏訪湖に源を発する天竜川が谷あいを流れる南信州伊那谷は、日本のほぼ中央に位置し、農作物の北限と南限が重なり合う地域です。
天竜川河岸段丘の肥沃な土壌に恵まれた自然条件は、農作物の栽培に適し、果樹や野菜など豊かな自然が生み出す素材の宝庫です。
戸田屋は、南信州伊那谷の四季折々の旬、安全な素材へのこだわりから、農家の高齢化や後継者不足による休耕地や荒廃地へ柿や栗の苗木を植えるなど、社員自ら額に汗し、「自社農園」で栽培に取り組むというかたちで、地元産素材の開発に取り組んでいます。
地域ブランドである市田柿をはじめ、栗、鬼くるみ、柚子、八重桜、そば、さんざし等、自社農園や地元契約農園で栽培された地元産素材を菓子原料として、自社製品への活用はもとより、全国への販売も行っています。
季節の移り変わりを肌で感じ、収穫の喜びを知り、私たちを取り巻くさまざまな環境について考え、食材の安全、安心に対する自らの姿勢を問い直す。戸田屋は「自社農園」で栽培するという体験を通して、素材そのものを慈しみ、その素材の旨みを生かした安全で安心な製品作りの研究開発を行っています。