南信州飯田の菓子文化を語るとき、名水百選に選ばれた「猿庫の泉」は外せません。
「猿庫の泉」は飯田の北西、風越山山麓に湧き出している名水で、江戸時代、茶道家の不蔵庵龍渓宗匠によって探し当てられたと言われています。
その時以来、飯田には茶の湯の文化が根づき、文化文政の頃には、時の飯田城主堀公が城内に数奇屋を建て、毎朝家来に馬を駆けさせ「猿庫の泉」の水で茶の湯を点てたという故事も残っています。
朝眼が覚めると朝茶を飲み、午前と午後のお茶の時間、さらには三度の食事の際にお茶を飲む。 飯田の人々のお茶好きは、古くからの歴史に裏づけされたもので、そのお茶好きがお茶と切っても切り離せないお菓子の文化を育み、全国でも有数の和菓子の産業がこの南信州伊那谷で発展してきました。
江戸時代より育まれた茶の湯の文化によって発展した南信州飯田のお菓子文化。和菓子は、水分含有量の違いにより、水分を多く含み比較的日持ちのしない生菓子と日持ちする半生菓子、干菓子に分けられます。それまで飯田下伊那郡内で消費されていた南信州伊那谷の地場産業である半生菓子は1955年(昭和30年)頃より郡外への売込みが始まり、注文が増加しました。その後戸田屋は1962年(昭和37年)頃より、市場を全国に展開、今まで地域密着型、生業的経営であった半生菓子業界も大規模な工業化へと発展し、現在は全国シェアの約40%を誇ります。
寛永五年(1628年)、伊勢の国より戸田屋善次郎が移り住んで以来、戸田屋はこの飯田に根をおろし、砂糖、小麦粉などの原料供給を行ない菓子文化を支えてきました。
南信州飯田の地場産業、半生菓子業界の発展が戸田屋の現在の基となっていると言っても過言ではありません。